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私がスペイン語をはじめた経緯:スペイン語がどうしてもやりたい訳じゃなかった

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おはようございます!

スペイン語と日本語の現役プロ通訳、タクミです。

 

今回の投稿は、タイトルそのままです。

私が「スペイン語をはじめた経緯」に関してです。

 

私は、スペイン語をはじめて4年ほどでスペイン語をお金にする事ができました。

その後、10年ほどがたった今、日本語とスペイン語の通訳になりました。

かれこれ、10年以上、スペイン語を軸に生活の糧を得ています。

 

でも、スペイン語を始める前に、「どうしてもスペイン語がしたい」という強い気持ちがあった訳ではありません。

 

この記事を読んでほしい人

この記事は、高校2、3年生の頃の私自身にあてて書いています。

国際協力に興味があり、世界で活躍するために、大学で外国語を勉強しようと思っているた自分に宛てて書いています。

 

その延長線で、将来国際協力の道に進みたいと考えていて、そのベースとなる外国語を学習することを考えているアナタにもぜひ読んでもらいたいです。

 

すべてのはじまり:高2秋の三者面談 

理系科目不適合の烙印を担任の数学教師から押される

すべてのはじまりは、高2の秋の三者面談だった。

この三者面談で、高3でのコース分け、ひいては進学先まで決まるという重要な面談だった。

 

数学教師の担任は、同席した母にこう言った。

 

「お宅の息子さん、理系科目に絶望的に弱いです。」

「3年生では、理数科目はあきらめた方がいいと思います。」

 

私立文系に進むことを担任は勧めた

私に理数科目不適合の烙印を押した数学教師は、私に別の生きる道を示した。

それは、高3で「私立文系」というコースに進むという道だった。

 

私立文系コースとは?

「私立文系」コースでは、数学、物理、生物、化学など私が苦手にしていた理系科目を履修しない。

これらの科目を受験必須科目に指定していない大学に志望校を絞る文系の生徒が集まる。

 

今は変わったかもしれないが、当時、理数系の科目を必須としていない公立大学は全国でも僅かだった。

多くの公立大学は、センター試験で、理数科目の受験を必須条件としていた。

 

先天的に理数系が絶望的に苦手

「不適合の烙印を押された」というとショッキングに聞こえる。

しかし、私は、「やっぱりか」と思った。

 

同席していた母親も、  「お前はやっぱり理数系はムリやから、潔く割り切った方がいいかもな」 と言っていた。

 

なぜこれほどまでにあっさりしていたかと言うと、自分が理数系に不向きだということに幼いころから気づいていたからだ。

 

小学生の算数レベルまでは何とかなったが、中学に入って因数分解とかルートとか乗計算とか複雑な公式が入ってくると不向き度合いに顕著に気づくようになった。

 

先生の説明を聞いても「えっ?なんでそこからそうなるの?」 という感じに陥っていた。  

いつしか、理数系の授業中に、世界地図を眺めたり、自分で世界地図を書くようになっていった。

 

高校に入って、公式が記号ばかりの複雑なものに変わったとき、すべては終わった。

実生活でどんな役に立つのか皆目見当がつかなかったし、何が面白いのか全く分からなかった。

 

先天的に数学が得意な人が教師になってるものだから、先天的に数学が苦手な人の気持ちが分からない。

 

授業中、指名されても答えられないから、ずっと立たされたこともあった。

「う~、どこがわからないんですか?(怒)」とキレられたこともあった。

 

何も答えなかったが、心の中の声は、「どこがわからないかも分からない」だった。

 

心の中に秘めた夢:国際協力

困っている世界の人の役に立つ事を仕事にしたい

私は、中学の頃くらいから、

 

「貧しくて、罪もないのに紛争に巻き込まれて、困っている人の役に立ちたい」

 

と思っていた。

 

私が中学の頃は、アフリカの貧困が目に留まっていたが、私が高校の頃は、NYでタリバンがテロ(9.11)を起こし、その報復として、アフガン戦争が始まった頃だった。

 

そして、パレスチナの紛争はよくニュースで流れていたし、イラク戦争も始まった。

中近東に注目が集まっていた時期だった。

 

中学の頃から感じていた「困っている人たちのために」という要素と「中近東」への関心が重なり、

 

「中近東の和平にかかわりたい」

「そのためには、国連で働くしかない」

 

と短絡的に考えるようになった。

 

どのくらい国際協力に興味があったのか:エピソード

私がどれだけ国際協力をやりたいと思っていたのか。

どれだけ貧しくて困っている罪のない人たちのことを気にかけていたのか。

 

それを物語る 苦くて恥ずかしい思い出がある。

 

高3の頃、気になる女の子がいた。

共通の友人の女の子を通じてメルアドをゲットした。

 

勇気を出してメールした内容が、

 

「アフガン戦争についてどう思う?」

 

という、今思い出してもイタ過ぎる、まさかの内容だった。

 

なんでそんな質問をしたのか全く理解できない。

当然、翌日、仲介役の女の子から、

 

「アンタ、何あのメール?」

「〇〇、マジでドン引きしとったよ」

 

という事実を突きつけられ、撃沈したのは言うまでもない。

 

国連で困っている人のために働きたい!

国連で働こうと夢見るタクミ少年は考えた。

 「国際協力をするには、国連で働くしか道はない」となぜか考えていたからだ。

 

・国連で働くには、外国語ができないとダメだ!

・国連公用語というのがあるらしい。

・中近東で話されているアラビア語は、国連公用語だ!

・よし、アラビア語を大学で勉強しよう!

・パレスチナ問題やアフリカの貧困にも興味があるから、ヘブライ語やスワヒリ語も勉強できる大学がいい!

・英語やフランス語のような先進国のメジャー言語だけじゃなく、現地語ができれば、困っている人の声を直接聞ける!

・当事者の意見を採りいれたら、困っている人を少しでも助けられるんじゃないか?

 

タクミ少年は、こんなことを考えていた。

そして、言った:「じゃあ、外語大に行こう!」

 

マイナー言語は国立の大学にしかないという現実

「じゃあ、外語大に行こう!」。

考えて調べたはところまではよかった。

 

しかし、わかったことがあった。

自分が学びたいようなマイナー言語は、「国立」の外語大でしか専攻として教えていないという事に気づいた。

 

狭まる大学の選択肢と夢が叶えられないかもしれないという懸念

「国立」の外語大ということは、センター試験で理系科目の受験が必須だ。  

自分はでも、理系科目を捨てるという選択をしていた。

 

この選択の結果、自分の得意に集中することはできた。

 

しかし、「大学の選択肢が狭まり、自分の夢が叶えられないかもしれない」というデメリットを受け入れることになった。

 

一歩前に出れば(選択をすると)、何かを犠牲にするという摂理を体験した瞬間だった。

 

理系科目必須の国立は受けられない

文系科目だけで受験できる公立大学

狭まった選択肢を前に、私は文系科目だけで受験できる公立校を探した。

親から「うちは公立にしか遣れないから」と刷り込まれて育ったし、子供なりに家の経済状況は把握していたから、当然の行動だった。

 

しかし、文系科目だけで受験できる公立の外語大なんて、全国でもわずか。

選択肢はかなり狭かった。 

 

文系だけで受験できるのは神戸市外大だけ

いろいろ調べた結果、文系科目だけで受験できて、かつ魅力的な言語があるのは、のちに我が母校となる神戸外大だけだった。

 

英語、ロシア語、スペイン語、中国語だけ(現地語がない!)

ただ、神戸外大も選択肢は狭かった。

専攻できる言語は、英語、ロシア語、中国語、スペイン語。

 

国際関係という専攻もあったが、耳障りはいいが何をするか分からなかったし、競争率も高いと聞いたので、退却した。

 

消去法による選択

英語は、嫌いではなかったが、受験のときにやり過ぎたせいか、

 

「もう、イヤだ。自分の意思で選べる別の言語を勉強したい」

 

と強く感じていた。

 

それに、「英語は専攻と同時に片手間でもなんとかなる」という甘い幻想を抱いていた。

 

ロシア語は、ロシアが寒そうだし、全く住んでみたいと思えなかったのでやめた。

 

中国語は、なんかイヤだからやめた。

 

そして、この選択肢の中では、「スペイン語が一番アツそうだ!」と思ったので、スペイン語に決めた。

 

スペイン語を選んだのは、消去法の結果だったのだ。

 

落胆の先に無理やり見出した光

当時のスペイン語に関する私の知識

リッキー・マーティン

確か中1のときだったと思うけど、リッキー・マーティンが一躍ブームになった。

 

中3の頃、リッキーの2枚目のアルバムを買った。

そのときのヘアスタイルがカッコよく見えたから、行きつけの床屋にアルバムのジャケットを持って行って、

 

「これ(リッキー)と同じにしてください」

 

と真顔で言ったら、 いつも切ってくれる兄ちゃんに腹抱えて笑われた。

 

部活も引退して、受験生だった私は運動不足だった。

太っていたので、どう考えてもリッキー・マーティンになれるわけがなかった。

 

兄ちゃんの腕はよかったが、原材料が悪くては、完成品の質もたかが知れていた。

 

エンリケ・イグレシアス

リッキー・マーティンの次に聴いていたのが、エンリケ・イグレシアス。

 

当時は、エンリケがアメリカ市場に打ち出した頃で、アルバムは英語版だったが、英語のオリジナルをスペイン語でセルフカバーした曲が同じアルバムに収録されていたので、それを聞いていた。

 

当時、スペイン語では、

 

・"H"を発音しないとか、

・"G"の発音が英語と違う

 

とかにも気づかなかった。

大学でスペイン語を専攻することが決まって入学するまで、彼のアルバムを引っ張り出してきて、スペイン語の曲だけ聞いて準備をしていた。

 

リーガ・エスパニョーラ

当時、フジテレビの「すぽると」で海外リーグのダイジェストが流れていた。

ジダンとかフィーゴとかロナウドがレアルに集まっていた時代。

ケーブルテレビでもリーガの試合が放映されていて、サッカー好きの同級生とあの選手はすごいとか学校で話していた記憶がある。

当時の私のスペイン語関連の知識なんてこんなレベルだった。

 

スペインの歴史を知って、無理やりこじつける

スペインは8~15世紀までイスラムの勢力圏だった。

 

そして、何世紀もかけてスペインがイスラム勢力を駆逐しながら、国土を取り戻した歴史の流れをレコンキスタ(国土回復運動)と呼ぶ。

 

スペインは、自分が興味があるアラブと深いつながりがあることを知った。

たしか、中学の社会の授業で覚えた内容だと思う。

 

であれば、

 

・いずれスペインからアラブ圏の北アフリカに移って、最終的に中東にたどり着ければいい。

・しかも、スペイン語は、アラビア語と同じく国連の公用語だ。

・ 中南米にだって貧しい国はあるし、国際協力に携わるチャンスはあるかもしれない。

・ だったら、今はスペイン語でいいんじゃないか?

 

と無理やり自分の決断を正当化した。

 

チャラい動機

神戸外大でスペイン語を専攻したいと思った理由は、立派な動機だけではない。

よこしまな「チャラい」動機もあった。

 

例えば、自分はモテなかった。

高2のときに1,2か月付き合ったことがあるだけ。

 

地元を出て人生リセットして、モテない生活にサヨナラをしたかった。

そして、細くてかわいい京都人の彼女をつくりたいと思っていた。

(当時、細い子が好きだった。)

 

好きだった鶴田真由が京都女子を演じるNHKのドラマに影響されて、京都の女性にあこがれを抱いていた。

 

入学後、偶然にも細くて可愛い京都女子に恋をするが、撃沈した。

撃沈の事情を知る友達には、

 

「京都・四条大宮事件」

 

として笑い継がれる撃沈劇だった。

 

それに、異国情緒あふれるオシャレな街、神戸で生活がしたかった。

 

それまで神戸に行ったことがなく、テレビのCMで見たことがあったくらいだった。

それで、「神戸=オシャレ」という勝手な妄想を膨らませていた。

 

それに、神戸外大のキレイなキャンパスにひかれた。

輝かしいキャンパスライフを想像した。

 

あとで他の大学のキャンパスと比較してみると、別に飛び抜けて綺麗な訳ではない事に気付いた。

 

「実家を出て、自由な生活ができる」ことにすごく魅力的に感じた。

いつでも彼女を家に連れ込めるし。

 

神戸には、明石海峡大橋もある。

ライトアップされる橋が見える部屋が借りれたら、雰囲気づくりは完璧だ。

 

まだ、彼女もいないのにこんな妄想を膨らませていた。

 

異国情緒あふれるオシャレな街神戸で、キレイなキャンパスの大学に通う。

 

可愛い彼女をつくって、モテない人生をリセットし、親の目も気にせず自由に彼女を連れ込める。

 

そして、愛する彼女と部屋でまったりくつろぐ。

部屋の窓から明石海峡大橋を見ながら。

 

ZARDの名曲、「心を開いて」の

 

「ビルの隙間にふたり座って、道行く人をただ眺めていた~」

 

という歌詞が聞こえてきた。

 

大学に入学が決まったあと、住む場所を選びに行った。

そのときの条件として、

 

「明石海峡大橋が見える部屋」

 

と言って、ヤンキー上がりの不動産屋に笑われたことを今でも覚えている。

 

満を持して乗り込んだ、「明石海峡大橋が見える部屋」からは、1年も経たず引っ越すことになる。

 

住む街を変えただけで、モテるようにはならず、結局、明石海峡大橋を部屋の窓からいっしょに眺める彼女はできず、連れ込み実績もゼロだった。

 

スペインに対する漠然とした明るいイメージ

一体いつから、どこで仕入れたイメージなのかは分からないが、スペインに対しては、「陽気で底抜けに明るい」というポジティブなイメージを抱いていた。

 

私は、なぜか子供のころから、

 

「太陽」

「明るい」

「陽気」

「情熱」

「アツい」

 

というワードに魅力を感じてしまうところがあった。

 

この根拠のない明るいイメージが、スペイン語を選択するうえで背中を押してくれたのは、間違いない。

 

ちなみに、「スペイン=情熱」というイメージは、中学の頃には持っていたと思う。

美術の授業で彫刻を作ったとき、自分の作品に、

 

「今夜、スペインの街角で」

 

とか命名して、同級生の女子に世界観を全く理解してもらえなかった。

 

まとめ 

以上、長くなりましたが、私がスペイン語をはじめた経緯です。

お分かりになったと思いますが、どうしてもスペイン語がしたかったワケじゃないんです。

 

やるうちに好きになりました。

続けるうちにやめられなくなりました。

 

そして、10年以上経ちました。

お金も稼げるようになりました。

 

この記事があなたの参考になれば幸いです。

 

もっとスペイン語が上手になりたい。

 

キューバに住み込みでダンスを学びたい!

 

以上、スペイン語と日本語の現役プロ通訳、タクミでした。